幼少期とスポーツとの出会い

1982年6月4日、山口県下松市で生まれました。

小さい頃は、自分の気持ちを表現することがあまりなく、おとなしい子でした。
一人で遊ぶことが大好きで一人でよくお人形で遊んでいました。
習い事もエレクトーンにお習字とインドアなものでした。

そんな私のスポーツとの出会いのきっかけはお友達のお母さんからかかってきた1本の電話でした。

「ミニバスに入らない?」

というお誘いの電話でした。スポーツとは無縁、さらには学校の持久走大会ではヘラヘラ笑いながら後ろの方を走っているような子でしたが、なぜかその誘いには

「やる!」

と即答したことを覚えています。
1度始めたらコツコツとやる性格の私は、ひたすら走って飛んでシュートしてあっという間にスポーツの世界にのめり込んでいきました。

その結果、6年生の時の持久走大会はなんと6位に入賞ができました!
私はミニバスケットボールを通して、チームワークの大切さやスポーツの楽しさを知り、身体的にも精神的にも成長をすることができました。

ハンドボールの毎日と突然の出来事

中学生ではハンドボール部に入部しました。

中学校2年まで試合に出ることができず、先に試合に出ている同級生がとても羨ましく思いながらも試合に出たい!という思いで日々の練習に励見ました。

その努力が実り2年生の終わりから試合に出させてもらい、3年生になる時にはキャプテンを任されました。
3年の時には県内では敵無しにまでチームは成長、全国大会へと出場することができました。

その後私は高校へと進学、ハンドボールのさらなるレベルアップをするため県内でも強豪の高校へと進学しました。
1年時から試合に出場、その後自分たちの代には春の全国選抜大会へと出場権を得ることができました。
選抜では2回戦負け、良い結果とはなりませんでしたが新たなな気持ちでインターハイ予選に向けて練習を再開しました。

全国に再挑戦したいと思い、インターハイ予選前の試合に挑みました。
その試合で私は人生の中で一番大きな出来事が起こるなど思っても見ませんでした。

いつも通りに勝ち進み準決勝。
相手を交わしジャンプしてシュートを打ち、着地の瞬間

「ボキッ!!!!」

鈍い音が体育館に響き、私はそのまま倒れました。

今までに聞いたこのない音が私の膝から響きました。
何が起こったのかわからず、さらに試合中であったため、アドレナリンがバンバン出ている状態、痛みなど感じることもなくすぐに立ってベンチに1度戻りました。

監督には
「試合出ます!出させてください!」
と直談判するものの再出場はなりませんでした。

その大会はなんとか残りのメンバーの力で優勝できましたが、翌日の私の脚は自分の足とは思えないぐらい腫れ上がりました。

『前十字靭帯断絶』

それが私のケガの名前でした。
その時の私はそのケガが大変で復帰するのに莫大な労力がいる事だとは微塵も思っていませんでした。

医者からはケガの回復には再建手術を受けると競技復帰までに1年はかかると医師からの説明されました。
私は手術は諦め、引退までは温存療法での競技の続行を決めました。

温存療法での競技の継続

それからの競技生活は、自分では思い通りに動かなくなった脚に戸惑う日々が続きました。
その日々は今だに夢に見るぐらいです。

膝の腫れが引いてからはの練習はガチガチにテーピングで固め膝が動かないように固めてさらにサポーターできつく縛り練習をしました。

しかし、ケガの前と同じパフォーマンスなどできるはずもなく歯がゆい毎日でした。

いよいよインターハイ予選、怪我をしてから2ヶ月後のことでした。
予選はベンチだ見守り、準決勝意を決して試合に出場。
しかし、私の膝は固定はしているもののぐらぐらの状態。
試合の時間が経つにつれケガのことを忘れ今まで同じようにボールを追いかけた瞬間

「ガクッ!!」

私は倒れ込みました。
それからもう立ち上がることができませんでした。

審判と監督に抱えられながらベンチに戻り、そこからの記憶はありません。

試合には残りのメンバーで勝利し私は帰宅後、病院へ。
翌日の決勝戦は松葉杖でのベンチ参加となりました。

私のチームは決勝で敗れ、インターハイの出場は叶いませんでした。
泣き崩れる同級生や後輩をを見て、私が泣くわけにはいかないと思い涙を堪えて
「ごめんね。よくやってくれたよ。ありがとう。」
という言葉をかけるのに精一杯でした。

その後は監督の配慮もあり、国体の選手にも選ばれキャプテンとして県代表として出させていただきました。
温存療法で最後までやり遂げ、全盛期ほどのプレイはできませんでしたがなんとかやり終えることができました。
引退後、前十字靭帯再建手術を行いました。

リハビリの毎日

怪我をする前は高校卒業後は競技から離れるつもりでいました。

しかし、ゲガによる不完全燃焼を感じておりさらに大学から声をかけてかけて頂いた事もあり競技を続けようと思い大学へと進学しました。

大学1年生、地元を離れ関西に出てきました。
初めての寮生活、大学の勉強、選ばれてきたメンバー、膝のリハビリ。
この1年は本当に辛く、今でも思い出したくないくらいです。

授業後の練習は私だけメンバーのいるグラウンドではなくトレーニング室でのリハビリでした。
一人でのリハビリは辛く、孤独で、どこまでやれば正解なのかわからないままのこの毎日は私の心の状態を崩していきました。
前十字靭帯断絶後の復帰は約1年ほど。
なんとかできそうな状況になり、練習を再開しました。
しかし、自分の思うように動かない身体にチームメイトのレベルの高さもっとできるはずなのに出来ないもどかしさがありました。
それからリハビリも同時に進行しつつ練習も行い毎日もがきながらも続けましたが私の心はもうこれこの毎日を続けることができませんでした。

2年生になる前に監督に退部の意を伝え競技を引退することを決意しました。

新たな場所と仲間

競技スポーツから離れた後は廃人のような毎日を送っていました。
このまま大学も辞めてしまおうかな、ここにいる必要がなくなったなと思いながら授業もサボりがちになっていました。
しかし、大学の友達がとりあえず授業に来い!としつこく誘ってくるので嫌々ながらも授業に向かいました。
本当にこの時に厳しく言ってくれた友達には今でも感謝しています。
なんとか自分の精神状態も安定してきた時にこのままでは本当にダメになる!と思い今まで競技のために使っていた時間で何かをしよう!と決意し寮にあった新聞のを見ていた時に求人広告を見つけてフィットネスジムのインストラクターのアルバイトを始めました。

フィットネスクラブでのアルバイトは、健康的なライフスタイルに興味がある人に触れ、競技スポーツの中で過ごしてきていた私にとってここでの経験は新たな世界へと一歩になりました。

それからは心の安定を取り戻し、さらに私は楽しむための運動に挑戦しました。
サーフィンにスノーボード、ダイビングにランニング、富士山登頂にも挑戦しました。
職場環境も本当に素晴らしくアルバイトという立場でもイベントの企画や運営をさせていだだきました。
そこから店舗の運営に興味を持ち、大学の卒業後は外食業界へと就職しました。

社会人時代の激務と健康

外食産業の仕事は一言で言えば「大変!」です。

入社式当日から勤務を開始しました。
初日から午後2時から翌日の午前5時まで働きました。

半年ほどで店舗責任者となり、その後複数店舗の運営を経験。
新店舗の立ち上げも任され、仕事はさらに忙しくなりました。

会社から認められ、全店の中で一番の店にすることができました。
しかし、その反面私の体は厳しい仕事量に追いつくのに苦労していました。
ホルモンバランスが乱れ、仕事を続けるには薬を飲み続けなければならない状態になっていました。
同僚の多くも健康を害し、会社を辞めた人もいました。

その状態が続き、体が追いついて来ず、精神的な健康に影響を与えました。
私は職場の仲間と会社の価値観を愛していましたが、結局仕事量に耐えられなくなり退職しました。

母であることの葛藤と専業主婦の10年

突然始まった母親業

そこから「母親業」が始まりました。
今まで、自分のことは自分で決めてきた私。
唯一この「母親になる」ことに関しては自分の意思とは関係ないところからの始まりでした。

そして、私は母として「理想」に近づきたいと無意識に感じるようになっていたのです。

その中で一番の影響を受けたのは自分の母親の存在でした。

母親との関係は良好であったし、仲は良いですのでご安心を。
しかし、私の中で「母」というサンプルが母しかなく、
あとは世間一般的に言われているいわゆる「理想の母親」しかありませんでした。

私の母親は本当に子供のためによくしてくれました。
母の結婚生活は結婚当初から介護が始まるという大変な結婚生活だったので今の私よりたくさんたくさん苦労してきたと思います。
だからこその私へのアドバイスだったのだと思いますが、
そうはいっても母と私は別の人間。
感じ方も考え方も全く違うのに同じようにしないとと自分の思い込みが私の違和感をずっと抱かせていたのだ思います。

私は「理想の母親」を追い求めることをしていました。

社会復帰と子育てと健康への意識

そんな「理想の母」との葛藤している最中に私は末っ子が幼稚園に入園を機に時間ができたので仕事を再開しました。

時間が限られている分、アルバイトでの社会復帰でしたが好きなことがしたい!と言うことで大学時代に経験したフィットネスインストラクターを選びました。

それまで家族や子供関係の環境に身を置いていたのでそれ以外の環境での勤務はとても楽しく時間でした。

順調に社会復帰をしながら2年くらい経った頃に今現在も続くコロナが流行し始めたのです。

このコロナは仕事はもちろん、今まで元気に過ごしていた子供達にも大きな影響を与えました。対処に打撃を受けたのはフィットネス業界でした。
もちろん、私の職場も休業を余儀なくされました。
さらに影響は子供達の学校にも及びました。
学校が大好きな長女はこの時小学校6年生でした。
最高学年、最後の小学校生活楽しいはずなのに新学期から2ヶ月の休校。
この2ヶ月は休校、外出禁止は明るかった娘の精神状態を不安定にさせました。
社交的で初対面の子とも仲良くできる、転校生来たら初日から一緒に帰るような子でした。

そんな子が2ヶ月の家から出れない状況、外にも出れない、体を動かさない毎日の中段々と口数が減り、
私の問いかけにも「ああ。」しか答えなってしまってのです。

こんなにもこの異常な環境は人を変えてしまうものなのかと感じ、この子達を守れるのは親である私しかいないと強く感じると同時に、どんな状況に負けない体の健康を作り、さらに精神的な健康を維持することの大切さを感じました。

理想の母からの脱却のきっかけ

私の理想の母親との葛藤は社会復帰してからも続いていました。

私は「理想の母」として目指していたものは

・母は子供のために生きる
・自分のことは後回し、子供優先な生活送ること
・子供が小さいうちはそばにいてあげること
・自分の時間より、子供との時間
・子供との時間を無くしてまで、仕事をする必要はない
・自分の身なりよりも、子供の身なりを気にかけること
・自分が外に出て働くよりも、家計をやりくりして子供との時間を大切にすること
・いつも子供に「おかえり」を言える状況であること

でした。

こんな私は

私ではない。
私らしくない。

それが違和感の原因でした。

これに気づくのに10年。
長いけど、別にこの10年間を後悔していいるわけではありません。
子供との時間は楽しかったし、自分の子供たちの無限なる可能性にこちらも一緒に成長させられています。

ただ妊娠がわかった時に
喜びよりも
「これで仕事が辞められる」
と思った自分に対して、「理想の母」になり世間から認められることで、
その時の自分を肯定したかったのだと思います。

今でも「母親業」は瞑想中ですけどね(笑)

しかし、私が自分の足で歩き、心や身体を満たし私らしくいるほうが子供やパートナーに良い影響を与えていると感じています。

私が「理想の母親」から脱却するきっかけになったのは

「学ぶ事」

ことでした。

学ぶ事、知識をつけることは自分の足でしっかりと立つ事を可能にしました。

しかし、そこに行くまでも色々と悩みました。

・家事・育児を後回しにして自分の時間をとっていいのか
・生活費を自分のために使っていいのか
・それよりかは子供のために使うべきなのか

色々悩みました。
しかし、このまま子育てが終わりその後のことや、これから子供達の将来の教育費などを考えると自分に先行投資をし歩む道の方が未来が切り開けると思い行動を開始しました。

私は学びを手に入れることで、
自分の周囲の環境が変化、
さらに家族との関係も自然と変化していきました。

今思うと、思い切って決断して良かったと感じます。

方法はどうあれ、自分の気持ちを大切に自分らしく歩むことが重要であるます。

誰もが自分らしく生きてもいいんじゃない?
その方が何だかいい感じに進むな。

それを感じることができ、今まで自分が自分で押さえてたことに気づきました。

世の中、意外と自分に優しい、辛いと思っていたのはそう考えている自分が作っていたのかも。

そんなことで悩むなら、好きなことやっちゃいな!

そう思って素直に自分らしく進んでも大丈夫でした。

そして、今、私思うことは自分らしくいられることが自然にできる世の中であってほしいということです。

そしてそんな世の中を自分らしく生きる私の姿で
子供達に魅せることが出来たらめちゃ嬉しい!!

後は健康・出産と10年間専業主婦として家事育児の毎日でした。

ここでの10年間を今振り返ると、「理想の母として」どう振る舞うべきかに囚われている日々でした。

健康維持を家庭から

身体が健康であることは、その人の生き方にも影響を与えます。

つまり、心身ともに健康であることが大切です。
健康について正しく理解し、維持することが重要です。
私は学生時代の経験やコロナ禍での子供たちの変化を経験して、健康がいかに大切なものであるかを身をもって感じました。

そのため、私は母親としてできることは、家庭から健康を伝えていくことだと感じました。

残念ながら学校では健康に関する教育が行われていません。
だからこそ家庭での健康教育が重要だと考えます。
そのために、家庭の中心人物である母親が自分自身の健康を整えることが必要です。
そして健康についてより深めることができれば子供達、パートナー、さらに両親達の助けになるのではないかと思います。

母親、女性、そして一人の人間として未来

今私の子育ての忙しさは、手のかかる時期から徐々に変化していきます。
段々と私の手から離れ一人でできることも多くなりました。
その頃から私は自分自身の将来について考えるようになりました。

専業主婦であった時は「理想の母」との葛藤。
そして、このまま雇われ続け、時給1000円でこのまま働き続けていくことに不安を感じていました。

そんなことを考えていた時、父が会社をリタイアしました。
父は71歳で、定年がなく、働けるところまで働いていた人でした。
そんな父の姿を見て、私は父の年齢まで人生を時給での労働を続けることへの疑問を感じるようになりました。

それなら正規雇用と思い正社員での勤務を探していましたが、求人誌やネットでの検索をしても、
主婦にとっては厳しい時間、社会人のブランク、年齢など、厳しい条件ばかりでした。
そこで私は雇われるのが無理であれば、自分の価値は自分で決めれる働き方を探そうと考えました。

私は、自分らしく生きたいと思っています。
母として、女性として、そして一人の人間として、自分自身であり続けたいと考えています。
そして私の生き方が少しでも誰かの希望となれば嬉しいです。
女性の社会進出は進んでいると言われていますが、まだまだ女性にとって社会は厳しい現実があります。
しかし私は諦めずに母として、女性として、そして一人の人間として自分らしく前進していきます。